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田中角栄10大伝説!3「数は力なり」! [田中角栄]

田中角栄10.JPG

田中角栄伝説の中で、日本列島改造論の

次に語られているのは、大平総理誕生の

選挙である。

最盛期の「田中軍団」は140人!

政治を支配し続けたリアリスト!



日本の戦後史上、最大の「政治派閥」が

田中派である。



田中角栄が脳梗塞に倒れる前の

1984年、第2次中曽根内閣において、

田中派議員は衆参合わせて実に140人。

秘書の総勢が1000人以上となった。

「数は力なり」

角栄自信がこの言葉を使っていた形跡は

ない。だが、

「困っているひとの力になれないやつは

 政治をやる資格がない」と語っていた

田中角栄は、他の派閥や野党議員の面倒も

見ていたのは有名で、「隠れ田中派議員」

を含めると、その権勢はもっと強大であった

と推測されます。

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政治記者の間でいまなお語り草なのは、

1978年11月の自民党総裁選です。



当時総裁を争ったのは、現職の

福田赳夫と大平正芳。


角福戦争に決着をつけたいと考えていた

角栄は、全面的に大平を支援した。


目白の私邸に田中派議員秘書を集めて、

こうゲキを飛ばしたと言う。

「この選挙期間中は全員、

 田中角栄の秘書だ!」



角栄は全員に「角栄秘書」の名刺を持たせ、

衆院予備選で投票権を持つ全国の党員の

自宅にローラー作戦をかけさせた。



予備選では予想を覆し、大平が福田を

上回り、それに驚いた福田は本選を辞退し

大平の勝利が決まった。

「天の声にも変な声がたまにはある」

という有名な言葉はその時に誕生した。

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このころから田中派は、膨張を続け、

田中角栄は裏舞台からときの政権を操る

「黒幕」としての存在感を強めていく。


それを支えていた力の源泉は、目的のため

なら露骨な多数派工作を躊躇なく実践する

体育会系的な田中派秘書軍団の機動性と

行動力だった。



当時、角栄は自らの大派閥をよく

「総合病院」にたとえて語ることがあった。



「目がつぶれたといっても、目医者にだけ

行ったんではだめなんだ。目がつぶれると

言うことは、糖尿病かもしれない。血糖値

が300、400ああるかもしれない。

糖尿病ならすぐ肝臓は、心臓はどうだと

ピシャッとやらないと。ウチは総合病院だ

もの」

田中角栄7.JPG

角栄の「軍団肥大化」のもうひとつの理由

は、ロッキード裁判でした。



この困難な裁判に打ち勝つために、要所に

田中派議員を送り込み、プレッシャーをか

け続ける必要もありました。・・が



この後、田中軍団に暗雲が立ち込めるのは

1984年のことです。



田中派が膨張しても、そこから総理が?

出ない。候補を立てないのはおかしいので

はないか。



政治の世界において「数は力なり」である

ことは間違いないが、その頂点に君臨する

総理が、田中派ではないという権力の

二重構造に疑問を持つ議員が出始めました



そうした不満を持つ勢力が竹下登のもとに

集まり、ついに「創政会」の旗揚げへとつ

ながっていきました。



1985年、田中角栄は脳梗塞に倒れ、

竹下時代が始まります。

「数は力なり」の時代がひとつの

区切りを迎えた瞬間でした!


最期まで読んで頂きありがとうございました。

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