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田中角栄は天才政治家!年表で見る田中角栄の一生! [田中角栄]

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田中角栄は、戦後最大の宰相(首相)と言われ、

人の心をつかみ、人を動かした天才政治家である。


「日本列島改造論」、「日中国交正常化」は、

田中角栄でなければ成し遂げる事は不可能であった。



この記事では、田中角栄氏の 誕生から

・初めての選挙 28歳
・郵政大臣就任 39歳
・大蔵大臣就任 44歳
・第64代内閣総理大臣就任 54歳
・政界引退 71歳

そして75歳でこの世を去るまでの田中角栄という生き方を

年表形式でまとめてみました。



西暦、年齢、

経歴、

主な出来事(国内外)の順に

読み進めてください。

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田中角栄の天才的な仕事術20ー2 [田中角栄]

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田中角栄の仕事術は、

天才的な判断力

天才的な決断力

天才的な実行力

があります。


◯ありのままを愛する

◯馬鹿にされても気にするな

◯負けず嫌い


などなど、その仕事術11から20を
まとめてみました。

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田中角栄の天才的な仕事術20-1 [田中角栄]

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金は心して渡せ

結論は初めに言え

生寿司よりいなり寿司

などなど、

田中角栄の仕事術は、

天才的な判断力。

天才的な決断力。

天才的な実行力。

があります。


その仕事術1から10までを
まとめてみました。


続きを読む


田中角栄10大伝説!5「日中国交正常化」! [田中角栄]

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田中角栄10大伝説の5は、歴史に刻まれた

角栄の大仕事「日中国交正常化」です。

「田中角栄でないと、できなかった」と思われるものは多いが、

その中でも「日中国交正常化」を実現させたことは、いまなお

「角栄最大の功績」として賞賛されている。1972年9月29日、

日本は中国との共同声明に署名調印し、正式に日中国交を回復させた。



日中関係が冷え切っている現在、もしあのとき、

田中角栄が日中関係の問題に着手していなければ、

いまごろ日本はどうなっていたか想像つかない。


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1972年7月に田中角栄が総理になってから

このように語っている


「毛沢東とか周恩来という今の中国を作った

創業者は共産主義であれ何であれ、

苦労をしてきた連中だ。多くの死線を越えてきた。

それだけに、すべてないものづくしのなかで

あのでかい国をやりくりしていくためには、

今何が必要かということが分かっている。

賠償金を放棄するという決断は、

あの2人にしかできない。だからこそ、

連中が元気なうちにこの勝負を決めなければならないんだ。」



ライバル福田赳夫に勝ち、総理の座に就いた角栄は、

ハワイでニクソン大統領と会談して、日本の方針を伝えた。

国内の台湾派議員や右翼団体からの

激しい抵抗の中、9月に訪中する。



その時の角栄の言葉を、秘書が語る。


「中国には命をかけて行く。俺は命は惜しくない。

深夜、目を覚まして思うのは、常に国家国民のことだけだ。

岸さんも言っていたが、

この気持ちは総理経験者でなければ分からないものだ」



また、別の秘書は中国側から事前に

「角栄の嗜好」について聞かれ、こう答えている。


「室温は17度。冷たいお絞りと氷水。

台湾バナナと柏崎の”西牧”の味噌汁、

それにコシヒカリ」


すると中国側は完璧にそのリクエストを準備し、

訪中した田中角栄を迎えたという。


歴史的な調印式を成功させ、パンダのお土産まで

持ち帰った田中角栄に国民的人気は急上昇した!

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田中角栄が総理の座を降り、

ロッキード裁判の被告となった後も、

中国は常に田中角栄に敬意を払い続けていた。



1978年には、鄧小平副総理が来日した時は、

田中角栄の私邸を表敬訪問しているし、

1992年に来日した江沢民の訪問を受け、

その4ヶ月後に訪中を果たした。


当時の角栄の言葉に


「中国再訪が実現し万感胸にせまるものがある。

私はこの20年間片時も目を離さず、

日中関係をみつめてきた。

首相当時下した決断が間違っていなかったことを

確信したい一心で訪れたのである」



歴史に刻まれる大仕事は、田中角栄の光った

フットワークと実行力により成功しました。

読んで頂き有難うございます。

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田中角栄の10大伝説!4「角福戦争」! [田中角栄]

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田中角栄10大伝説4は「角福戦争」です。

対極に位置する2人の男

「田中角栄」と「福田赳夫」。

高等小学校出の田中角栄と大蔵省出身の福田赳夫。

1970年代から80年代にかけて、長く激しい政争を繰り広げました。

人呼んで「角福戦争」を3つのラウンドに分けて紹介します。


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第一ラウンド

2人の第一ラウンドは、1972年

佐藤栄作の後の総理総裁戦です。

総裁選に出馬したのは、

田中角栄、福田赳夫、大平正芳、三木武夫

の4人です。

この総裁選では、2人の激しい駆け引きが行われ、

実弾(現金)が激しく飛び交う生臭い死闘が繰り広げられました。



「二位が一位を支えよう」

角栄と福田は約束していましたが、

その裏で角栄は大平、三木に決選投票では頼むと話をつけていました。

それを知った福田は憤ったが、結果は、

1回投票

田中角栄 156票
福田赳夫 150票
大平正芳 101票
三木武夫  69票

決選投票

田中角栄 282票
福田赳夫 190票 で角栄の勝利。

なりふりかまわず選挙に資金を投じた角栄は、

ライバルとの大一番に勝利する。



第二ラウンド

2人の第二ラウンドは、1978年

大平総理誕生の時の福田潰しです。

「三木おろしで」は手を組んだ角福でしたが、

その後1976年に福田が総理になると、

田中角栄は、「二年後に大平に禅譲」という

約束をしました。しかし、福田はその約束を

無かったことにするのです。


ロッキード事件で逮捕され、表舞台から姿を

消していた角栄だったが、福田政権が続くことを

阻止するために、派閥議員の全秘書を総動員して

福田潰しを開始しました。結果は大逆転で、

大平総理を誕生させ、ここでも勝利です。

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第三ラウンド

第三ラウンドは1980年

鈴木善幸内閣が誕生したときです。

大平のハプニング解散による衆参総選挙で、

大平が選挙期間中に急死。

自民党は大勝ですが、大平派の鈴木善幸が総理に

就任したことで、田中派は不動の状態です。

「角福戦争」は一応の決着がつけられました。



田中角栄と福田赳夫は、対立しながらも

角栄が総理の時は福田を大蔵大臣に起用するなど、

互いに「自分にない能力」を認め合っていました。


「角福戦争」においては、何かと「悪役」と

されがちだった超エリートの福田赳夫。


角栄秘書の早坂茂三は、後に福田の人間的な一面を紹介しています。

1985年に角栄が倒れ、

早坂が自分の事務所を開く時に、1000人以上の関係者に挨拶状を書いて送った時に、

一番最初に「早ちゃん、頑張れよ」と返事が返ってきたのが、福田赳夫だったそうです。

その翌日、2人は福田の事務所で会い、昔話に花を咲かせた。


その翌日、早坂のところへ新聞各社の福田番の記者から電話があり、

「昨日、福田さんと会っていたそうですね。どんな話をしたのですか」

早坂は逆に尋ねた。

「福田さんは何とはなしていた?」

「早坂は何も肝心なことを話さなかったよ、と言っています」


秘書の世界で「話さない」ことは信用であり、美徳だ。

福田はそれを知っていて、わざと新聞記者にそう話したのである。


福田流の「プレゼント」は

病に倒れた角栄へのエールであったのかもしれない。


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田中角栄10大伝説!3「数は力なり」! [田中角栄]

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田中角栄伝説の中で、日本列島改造論の

次に語られているのは、大平総理誕生の

選挙である。

最盛期の「田中軍団」は140人!

政治を支配し続けたリアリスト!



日本の戦後史上、最大の「政治派閥」が

田中派である。



田中角栄が脳梗塞に倒れる前の

1984年、第2次中曽根内閣において、

田中派議員は衆参合わせて実に140人。

秘書の総勢が1000人以上となった。

「数は力なり」

角栄自信がこの言葉を使っていた形跡は

ない。だが、

「困っているひとの力になれないやつは

 政治をやる資格がない」と語っていた

田中角栄は、他の派閥や野党議員の面倒も

見ていたのは有名で、「隠れ田中派議員」

を含めると、その権勢はもっと強大であった

と推測されます。

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政治記者の間でいまなお語り草なのは、

1978年11月の自民党総裁選です。



当時総裁を争ったのは、現職の

福田赳夫と大平正芳。


角福戦争に決着をつけたいと考えていた

角栄は、全面的に大平を支援した。


目白の私邸に田中派議員秘書を集めて、

こうゲキを飛ばしたと言う。

「この選挙期間中は全員、

 田中角栄の秘書だ!」



角栄は全員に「角栄秘書」の名刺を持たせ、

衆院予備選で投票権を持つ全国の党員の

自宅にローラー作戦をかけさせた。



予備選では予想を覆し、大平が福田を

上回り、それに驚いた福田は本選を辞退し

大平の勝利が決まった。

「天の声にも変な声がたまにはある」

という有名な言葉はその時に誕生した。

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このころから田中派は、膨張を続け、

田中角栄は裏舞台からときの政権を操る

「黒幕」としての存在感を強めていく。


それを支えていた力の源泉は、目的のため

なら露骨な多数派工作を躊躇なく実践する

体育会系的な田中派秘書軍団の機動性と

行動力だった。



当時、角栄は自らの大派閥をよく

「総合病院」にたとえて語ることがあった。



「目がつぶれたといっても、目医者にだけ

行ったんではだめなんだ。目がつぶれると

言うことは、糖尿病かもしれない。血糖値

が300、400ああるかもしれない。

糖尿病ならすぐ肝臓は、心臓はどうだと

ピシャッとやらないと。ウチは総合病院だ

もの」

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角栄の「軍団肥大化」のもうひとつの理由

は、ロッキード裁判でした。



この困難な裁判に打ち勝つために、要所に

田中派議員を送り込み、プレッシャーをか

け続ける必要もありました。・・が



この後、田中軍団に暗雲が立ち込めるのは

1984年のことです。



田中派が膨張しても、そこから総理が?

出ない。候補を立てないのはおかしいので

はないか。



政治の世界において「数は力なり」である

ことは間違いないが、その頂点に君臨する

総理が、田中派ではないという権力の

二重構造に疑問を持つ議員が出始めました



そうした不満を持つ勢力が竹下登のもとに

集まり、ついに「創政会」の旗揚げへとつ

ながっていきました。



1985年、田中角栄は脳梗塞に倒れ、

竹下時代が始まります。

「数は力なり」の時代がひとつの

区切りを迎えた瞬間でした!


最期まで読んで頂きありがとうございました。

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田中角栄の10大伝説!2「日本列島改造論」 [田中角栄]

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田中角栄10大伝説の2は、日本列島改造論です。

驚異の90万部ベストセラー!
その大いなる反響と結末!

政治家・田中角栄の「代名詞」ともいえる
政策は、「大日本列島改造論」である。

1972年6月、通産大臣だった田中角栄
内閣総理大臣に指名される半月前に、
田中本人の著書として
「大日本列島改造論」が出版された。

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総理大臣に就任した勢いもあり、同書は
最終的に約90万部を売り上げる
大ベストセラーとなりました。

政治家の純粋な政策書としては、
いまだにこの数字は塗り替えられてない。

同書の内容は、一言で言うならば、

「都市の過密と地方の過疎を防ぎ、
 経済格差をなくす。そのために
 交通網を整備し、情報インフラ
 を整える」と、

論じたものだった。

雪国の新潟から政治家になった田中角栄
にとって、地方の農村と都市の格差解消
そして、地方で豊かに暮らせる国作りは
もっとも主たるテーマであった。


この本の制作には通産大臣秘書官だった
小長啓一と何人かの通産官僚、そして
新聞記者出身秘書の早坂茂三が
深くかかわっていました。


後に通産省事務次官になった小長啓一氏
本人が田中角栄の言葉をこう証言している。


1971年の暮れ

「俺もまあ、工業の再配置問題とか、通産省
からみた国土開発を勉強した。これで政策の
「全体系」が頭に入った。ちょうど代議士
25周年。節目ということで考えをまとめて
みるか」

これが列島改造論が生まれた瞬間だった。

さっそく、通産省の役人と、日刊工業新聞の
記者6,7人が執筆スタッフに選ばれ、
動き始めた。
「堺屋太一」と名乗る
池口小太郎さんもいたそうである。

田中角栄は頭の中にある構想を資料なしで
朗々としゃべるのであった。

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「東京へ、東京へ、という人とモノと金の流れ
を、地方へ逆流させようじゃないか。」

「おなじ日本人なんだから、どこに住んでいて
も一定以上の生活ができる体制にしようじゃ
ないか」

独特のダミ声。時に言葉を止め、
抑揚をつける調子に、聞き入るスタッフ。

「君ら、酔って丸の内でひっくり返っても、
すぐ救急車で運んでもらって、
一晩休めば命には別条ない。
同じ事を北海道でやったらどうなるか。
そういう格差はなくそうじゃないか」

(朝日新聞2012年4月30日)


同書のまえがきには、

「水は低きに流れ、人は高きに集まる・・」

文学的な表現は、早坂茂三氏が田中角栄の
ゴーストをつとめたと言われている。

田中角栄が自信を持って世に送り出した
「日本列島改造論」は
大きな反響を呼び、小長氏は角栄に
首相秘書官として引き上げられる。


しかし、そこから「狂乱物価」が始まる。

内需を膨らませる政策が具体化したため、
インフレが進行。
「列島改造論」は悪玉として批判の対象に!

1972年の総選挙で自民党は敗北する。

1973年に愛知揆一蔵相の急死後、
角栄は土建国家化に反対の福田赳夫を
やむなく蔵相に起用。「列島改造論」は
事実上の「お蔵入り」となる。


「反省しなければならない点があった。
都会から農村へ人、物、金を流すつもりが
反対に流れてしまった。
便利さにはいつも難しさが
つきまとうんだな。」と、
渡部恒三議員は言っていた。


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田中角栄の10大伝説!1「尋常高等小学校卒」 [田中角栄]

田中角栄 小学校.JPG

田中角栄10大伝説1は

尋常高等小学校です。

学歴なき「庶民宰相」の誕生!

原点は、雪国の生活を豊かに!


田中角栄の学歴は、
尋常高等小学校(現在の中学校)卒という
戦後の歴代総理大臣としては極めて異色
と言えるでしょう。


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田中角栄は1918年(大正7年)5月4日、
新潟県刈羽郡二田村(現・柏崎市)に
父・角次、母・フメの次男として生まれる。


角栄の上には角一という兄がいたが天折し
たため、実質長男として育つことになる。


父の角次は牛馬商であったが、事業に失敗し
角栄は極貧の生活を余儀なくされた。


角次は競走馬を保有し全国各地の競馬場で
出走させていたが、借金を作ると、母のフメ
が親戚に頭を下げて借金し、その金を角栄が
父に届けることが多かった。


雪深い村の生活と母の苦労は、角栄の原体験
として意識の奥底に刷り込まれていく。


尋常高等小学校を卒業した角栄は成績は優秀
にもかかわらず、経済的な事情で進学は断念
した。


生まれつき吃音があった角栄は、漢詩やお経
法律書などを手当たり次第に音読することで
その「どもり」を克服できた。そのとき覚え
た知識は、その後の角栄を大いに助けること
になる。


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角栄は柏崎の土木派遣所で働いたあと、
1934年に、15歳で上京する。



「この時母フメが話した3つのこと」

1、人間は休養が必要である。休んでから
  働くか、働いてから休むか。
  そのときには働いてから休みなさい。

2、それから悪いことをしなければ
  住めないようになったら、
  家に帰ってきなさい。

3、またお金を貸した人の名を忘れても、
  借りた人の名は絶対にわすれては
  なりません。



上京した角栄は井上工業という土建会社に
住み込みで働きながら、新生活をスタート
させる。


1946年に衆院選に出馬するが、落選。

1947年に初当選するまで、角栄は激動
の戦中時代を逞しく生き抜いた。


建築事務所の設立、満州での兵役。
理研コンツェルンと大河内正敏との出会い

除隊後に開設した「田中建築事務所」の
家主の娘。坂本はな との結婚。

長男・正法(5歳で死去)
長女・真紀子の誕生。そして終戦・・・。


実際に学校に通っていた時期は8年と
確かに短かったが、角栄は持ち前の野心と
行動力で、終戦時にはすでに有力な実業家
として独り立ちし、会社の顧問だった
政治家・大麻唯男のすすめで
「政界」を志すことになる。


角栄さん.JPG


角栄にいわゆる「学歴」がなかったことは
確かだが、そのかわり、どんなエリートを
も凌駕する濃密な人生経験と運命的な出会
いをこの青春時代に経験していた。

後に、
日本を代表するエリート官僚たちが、
角栄に心酔し傾倒していったのは、
生きるための実学に長けた角栄の
「凄み」を肌で感じた部分が大きかった
と考えられます。


角栄は、政治家になってから、自分の
「学歴のなさ」をむしろ官僚とは違う、
ひとつの武器としてうまく演出して見せて
いた側面もありました。


角栄は、小学校時代の校長先生を終生の
恩師と呼び、その「教え」をこのように
書いています。

「われわれ人間の頭脳の中は、数限りない
印画紙の倉庫となっていて、自分が
つよく感ずれば印画紙はつよく感光するし、
弱く感ずればうきでてくる映像もぼんやり
とする。

自分の名前さえ書けない文盲の
老婆でも、真剣にお経の文をおそわれば
わすれることもない。

脳中の印画紙は無数であり、しかも、一度焼き付けられた
映像は、死ぬその時まで消えることがない」

(参考 わたくしの少年時代)


最後まで読んで頂きありがとうございます。


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