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明治の大富豪から学ぶ成功哲学3か条!莫大な財を築いた大富豪とは! [歴史]

富豪.JPG


幕末から明治にかけて大活躍し、
莫大な財を築いた大富豪

渋沢栄一
岩崎弥太郎
安田善次郎
広岡浅子

4人の実業家の成功哲学3か条を
紹介していきます。

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自燈明・法燈明の教えは「お釈迦様の遺言」! [歴史]

自燈明.PNG

伊達政宗の禅師である
虎哉和尚(臨済宗・妙心寺)が、

幼少のころの、伊達政宗に
「自燈明・法燈明」
という言葉を教え込みました。

この、「自燈明・法燈明」の教えを
いろいろ調べてみました。

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信長の城は楽園?小牧山城、岐阜城、安土城のサプライズ! [歴史]

天下布武の朱印を使い天下取りを目指した

戦国大名「織田信長」

お城は楽園だったのでしょうか。



今、戦国大名織田信長の築いた城が各地で

調査が進み、次々と新事実が報告されてい

ます。代表的な小牧山城、岐阜城、安土城

のサプライズに満ちた信長の居城の魅力を

紹介してみます。



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小牧山城



小牧山は愛知県小牧市にある標高86mの山

信長は、桶狭間の戦いに勝利した後、全力で

美濃を攻める体制をつくるために本拠地を小

牧山にし、山頂に城を築きました。


小牧山城.JPG


小牧山城は、山全体がお城の敷地で山麓南側

から西側にかけて城下町がつくられています。

美濃への侵攻を繰り返し、美濃の稲葉山城を

落城、信長は稲葉山城を岐阜城と改め移住。

これにより、小牧山城は約4年間で廃城とな

りました。


小牧山城1.JPG


小牧山城は

城の四方を石垣で囲んだ本格的な城であるこ

とが調査の結果判明し、長期滞在も信長は

考えていた可能性があったようです。



岐阜城



岐阜城は、かつて稲葉山城と称し、戦国時代

には、斉藤道三の居城でもありました。

この岐阜城を天下に示したのは、信長がこの

城を攻略して、地名の「井の口」を「岐阜」に

改称して天下統一の本拠地としてからです。

現在の城は昭和31年に復興されたものです


岐阜城1.JPG


岐阜城は、標高329mの高さにあり最上階

からは、鵜飼いで有名な長良川が流れ、

東には木曽御岳山が雄大な姿を見せ、

北には日本アルプスが連なっています。



また西には伊吹、鈴鹿の山系が連なり、

南には濃尾の大平野が開け、木曽の流れが

伊勢湾に注いでいるさまを一望できます。

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安土城



織田信長といえば安土城。


安土城 全景.JPG


「かつて見たことがないほど壮大な宮殿」

ポルトガルから来日した宣教師が信長に

招かれて、安土城を観覧した時の言葉です。


安土城 内部.JPG


宣教師ルイス・フロイスの自著「日本史」

によるとお城は、地下1階地上6階の造り

で、高さは40メートルを超える壮大な

つくりだった。土台は石垣を積み重ね、

各層の外壁は朱色や青色、白色の塗装、

最上階は金箔の瓦や柱で飾られ、

金色の輝きを放っていたそうです。



安土城 金.JPG



城の内部にも墨絵や、金碧極彩色で仕上げ

た部屋などがあり、その機能や芸術性は

当時の最高水準だったようです。



信長の独創性をまさに具現化した建造物

安土城!信長自ら天下人としての権威を

誇示すべく、空前絶後のド派手なお城

だったのです。



安土城は、本能寺の変が起きて間もなく

原因不明の火災で焼失、今は石垣などの

一部の遺構を残すだけのようです。

自分の思いどおりに作ったお城は、

やはり楽園と呼ぶに相応しいのではない

でしょうか!

一度は、本物の安土城を見たかったですね


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最後まで読んで頂き有難うございます。

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木戸孝允(桂小五郎)と妻松子(幾松)の出会いは?新撰組から守った妻木戸松子! [歴史]


維新の三傑の一人、長州藩のリーダー

木戸孝允(桂小五郎)と、

新撰組から木戸孝允(桂小五郎)を守った妻

木戸松子(幾松)の2人の出会いを中心に

検索してみました。



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2人の出会い


2人が出会ったのは京都の祇園祭でのこと。
無言詣りの最中に、酔客にからまれている
幾松を助けたのが始まりでした。

その時幾松は、
「この人だ、私の待っていた人は。
きっとまた会える気がする。」  幾松の
ひとめ惚れでした。

長州の桂小五郎であることをまだ知りません
幾松20歳、小五郎30歳の夏。

その数日後、お座敷に向かった幾松は、
舞の準備ができるとお座敷の襖をあけて
舞いながら登場、座の主客をを見て歓喜
「あえた、あの人に。」
お座敷の主客が、桂小五郎だったのです。

互いに驚き、幾松はうれしさに涙が止まらず
思いをこめて泣きながらの舞になったそうです。


浮草は、思案の外の誘い水  
恋が浮世か浮世が恋か

なぜか聞きたい松の風   
問えど応えず山ホトトギス

たずねる人の面影が    
池にうかびてやるせなき

なんにも云わず手をそえて  
二人して吊る蚊帳のひも

isomatu.JPG


幾松・新撰組から小五郎を守る!


ある時幾松が酒を買いに好く途中、新撰組の
姿を見つけます。

幾松は慌てて屋敷に戻り、小五郎を
部屋に遭った「長持ち」の中に隠れさせます

新撰組が屋敷に踏み込み探しますが
なかなか見つかりません。

最後に新撰組局長・近藤勇が長持ちに手を
かけようとしたその時、幾松は

「中には、ウチの下着が入ってますのや
もし、よその男はんに見られたら、ウチ、
死ぬほど恥ずかしおます。

見たいて言わんはったら、見はっても
よろしおすけど、もし、何もなかった時は、
近藤はんにも、切腹してもらわんと・・」

幾松の肝の据わった様子に近藤は
「すまなかった」
と言って立ち去ったといいます。

他にも、見回り組みに捕らえられ、桂の
居場所をはけと拷問にかけられても、
決して答えようとはしなかったそうです。

これを聞いた近藤は
「さすが噂通りの女よ」と
感服したそうです。

坂本竜馬の妻・お龍も、妹を助けるため
男と戦ったという逸話がありますが、

志士たちを支える女性には、男たちにも
ひるまない度胸が求められていたのかも
しれません。

kidotakayosi.JPG

木戸孝允(桂小五郎)

1833年8月11日生まれ
1877年5月26日 没 満43歳
薩摩藩と長州藩の間で締結された
薩長同盟は
幕末において最も重要な出来事だった。


木戸松子(幾松)
1843年     生まれ
1886年4月10日 没 満43歳
遺言に「木戸孝允の傍らに葬って欲しい」
と言い残してこの世を去る。

愛した男は、日本を変えた男であった。



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伊藤博文と妻梅子の関係は?初代内閣総理大臣を支えた妻伊藤梅子! [歴史]

伊藤梅子.JPG

明治を代表する政治家

初代内閣総理大臣・伊藤博文と

夫を献身的に支えた妻伊藤梅子

の関係を見ていきます。



「伊藤博文と妻梅子の関係」


妻伊藤梅子は1848年生まれ。

最初の名は木田梅子。

伊藤博文に出会ったのは、梅子が

小梅の名で下関稲荷町の置屋「いろは」に

芸妓として出ていた時でした。



博文は小梅がたちまち気に入ったが、

伊藤博文にはすでに吉田松陰の松下村塾で

同門の入江九一の妹すみを、1863年に

妻にしていたのです。



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伊藤博文は1866年に、このすみを離別

すぐに小梅を妻に迎えて、明治以降急速に

出世階段を駆け上がる。



妻梅子の方も、高官夫人として努力を重ね、

もともと字など書けなかったが、

当代一流の坂正臣の弟子になって練習し、

夫の代筆をするほど上達しました。



皇后と歌のやりとりもできるようになり、

英語もかなりこなせて、手紙もかけた。



妻梅子は元来、聡明な上に非常な努力家。



妻梅子は、伊藤博文との間に

7人の子産んだが、生子一人だけが育った。

伊藤にとっても自慢の子で、

どこに行くにもつれて回った。

結局、実子はこの生子だけだったが、

家庭には、伊藤博文が他の女に生ませた

男の子や女の子が数人いたそうです。

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「伊藤博文を支えた妻梅子」


明治の中で女好きといえば伊藤博文の右に

出る者はいない、と言われるほどの女道楽

でした。

伊藤博文が思いきって女道楽ができたのは

妻梅子の内助のおかげ

だったとも言われております。



妻梅子は、伊藤博文の女遊びについては、

一言も文句をいわなかったそうです。



それどころか、馴染みの芸者が来ると、

「御前様は、公務で大変忙しい方だから、

あなたに来てもらって慰めてもらうのが

一番のお気休めになるのよ。

御前様はあなたを御ひいきなんだから、

ときどききて慰めてくださいね」

と言って、帰るときには必ず梅子が出てきて

反物などの土産を持たせた。と言う。



芸者出身で、なにもかも心得ていたのです。

博文も、これには内心恥じ入るものがあり

「あなたの一番頭の上がらぬ人はどなた」

ときかれると、女房どのだと答えています。



しかし、それは表向きだけで、実際には

芸者を自宅に呼んで遊び、女房に土産の

心配をさせていたのでした。



夫の伊藤博文の政策にそれが必用ならば

なんでもやってのけた妻梅子。

鹿鳴館時代は、ヨーロッパ風社交界を

トップレディーとしてそつなく運営し、

芸者としての社交のプロの姿をみせている。



梅子婦人は夫博文の浮気に関しては、

一切口をださなかった。



明治42年、夫、伊藤博文がハルピンで

狙撃されて死んだ時、知らせを聞いた梅子は

涙1つこぼさず、

「国のため光をそへてゆきましし、

 君とし思へどかなしかりけり」 と詠んだ


国のためと思って、夫の浮気に耐え、明治の

初代トップレディーとして生き抜いた梅子は

大正13年になくなりました。(77歳)


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